画廊亭主のつぶやき~彷書月刊10月号より

綿貫不二夫 2008年11月27日

 私の画廊の看板は、現代作家では建築家の磯崎新、イタリア在住のテンペラ画家・小野隆生、写真家の細江英公、物故作家では瑛九、恩地孝四郎、駒井哲郎らである。ジャンルでいえば建築、版画、写真ということになろうか。
 少年時代の夢は建築家か古本屋になることだった。それがどこでどう間違ったのか。画廊で修業したわけでもなく、たまたま新聞社時代に版画の普及を目的に版元(一九七四年、現代版画センター)を企画した。それが軌道にのる前に本体が傾いてしまい、行きがかり上、独立せざるをえなかった。以来画商一筋といいたいところだが商才に乏しく、一九八五年に倒産してしまった。美術雑誌各誌に「放漫経営」と指摘され、それから十年は借金返済と『資生堂ギャラリー七十五年史』の編集に費やして、気がついたら五十になっていた。現存するものでは日本最古の画廊史をまとめるべく国会図書館で新聞雑誌を虱潰しに調べ、登場する作家五千人の膨大な記録集として刊行にこぎ着けたのが一九九五年、足掛け六年にわたった編集チームを解散し、編集室だった青山の一軒家で画廊&編集事務所「ときの忘れもの」を開いた。相変らずの貧乏画廊で客は少なくヒマでいいのだが(わが画廊は一日七時間労働、残業無し、週休完全二日、北欧にも勝る労働環境である)、黙っていても月末は来る。売り上げゼロの展覧会が続くと、さすがにめげる。私を支えてくれた恩人たちを偲び、新たなパトロンの出現を祈りたいものだ。
 美術にはまるで素人だった私を導いてくれたのは久保貞次郎先生である。前述の版画普及の事業を企画したとき、高校時代から私淑した井上房一郎さんが心配して神奈川県立近代美術館で土方定一先生に引き合わせてくれた。井上さんはブルーノ・タウトを高崎に招き、戦後は群馬交響楽団、群馬県立近代美術館設立に尽力した文化のパトロンだった。土方先生が久保先生を紹介してくれ私の画商人生の師匠となった。久保先生は美術教師たちを組織して創造美育運動を展開し、それと同時に小コレクター運動を唱導された。「支持することは買うことだ」が口ぐせだったが、売り買いが大好きで、誤解を恐れずにいえば日本有数の画商・版元だったといっても過言ではない。ついでにいうと久保先生の教え子がときの忘れものの社長で、私はヒラ社員兼社長夫人ならぬ画廊亭主である。
 瑛九や池田満寿夫の才能を早くから見出し、日本人離れしたスケールの大きなコレクターだった久保先生だが失敗もしている。稀代の贋作画家・滝川太郎から大量に偽物を買わされたが、同じく偽物をつかまされた国立美術館が口を拭って沈黙するなか、自らの贋作コレクションを堂々と公開された。並の日本人にはできない芸当である。跡見短大の学長や町田市立国際版画美術館館長を歴任され、ヴェネチア・ビエンナーレでオノサト・トシノブや靉嘔を紹介し、日本の現代美術が海外へ進出する先鞭をつけたのも先生の功績である。私たちは公私ともにご迷惑をかけてしまったが、没後の追悼文集『久保貞次郎を語る』(文化書房博文社)の編集に参加し、ご遺族から「お好きな方に手渡して」と膨大な蔵書と版画の整理を託されたことは画商冥利に尽きる。画廊の倉庫に残る久保旧蔵書の頒布目録を近々ホームページに掲載すべくいま準備を進めている。
 その昔、南画廊の志水楠男さんに「キミ、何したいの」と聞かれ、その頃、版元としてエディションした菅井汲の版画を「日本中に売りたい」と答えたら、即座に「そりゃあファッショだ」と窘められた。志水さんが死んだ歳をはるかに超え、同時代には少数の理解者しかいない美術作品を次の世代へ引き渡すのが画商の仕事なのだとようやくわかってきた。美術は徹底的に少数者のものなのだと教えてくれたのが、Fさんだった。
 風景を撫でている男の後姿がみえる
 瀬木慎一著の新潮選書『名画の値段 もう一つの日本美術史』の最後にでて来る山口長男の絵のコレクター、秋田の町医者Fさんは北園克衛の『VOU』に夫人の森原智子さんと参加した詩人だった。一行詩を書いたのは、瑛九の父と同門で自由律俳句『層雲』の同人だった父君の影響だろう。
 Fさんが病に倒れたとき、枕元には私がさしあげた川上澄生の南蛮船の蔵書票(坂本一敏さんからいただいた)とイブ・クラインの青のトルソーが飾られていた。現代美術をつい理屈で考え勝ちな私たちにはなし得ないセレクションである。私の画商人生の最初の十年を支えてくれた大恩人だった。
 月末が迫ると診察の合間をみはからって電話をかける。「F先生、デュシャンの珍しい版画が入りました」とモノも見せずに押し売りした挙句、「できれば今日の三時までに振り込んでいただきたいのですが」とたたみかける。Fさんの町には銀行はなく、今と違ってコンビニもATMもない。今思うと冷や汗ものだが看護婦さんがタクシーで隣町の農協まで走り、そこから秋田銀行経由で送金という騒ぎを毎月のようにお願いしていた。慶応病院で最後を迎えられた日、駆けつけた私の呼びかけに苦しそうにうなずくだけだった。お葬式の後、夫人から「私には何があるのか全くわからないから」と本と絵の整理を依頼され、泊りがけで秋田のお宅に伺った。書庫の押入れを開けて呆然とした。私たちが売った作品が梱包されたまま封も解かずにそのまましまってあった・・・。
       綿貫不二夫(ときの忘れもの)
       『彷書月刊』2008年10月号より転載

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