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1.水晶原石の輸入で独自の地位を築く
創業者の篠原正廣氏が生まれたのは明治24年、近代国家の建設に向け明治政府が動き始めたばかりの頃でした。殖産興業のうねりは全国に広がり、この山梨でも新しい設備を備えた官営の製糸工場が煙を上げ始めます。江戸時代から小規模に行われてきた水晶研磨も次第に家内手工業として特色ある水晶製品を作り出せるようになりました。この水晶研磨が今日の宝飾産業のルーツなのです。わずか12才で徒弟奉公に出された正廣氏は、水晶加工を自らの天職と考え、小さな水晶加工工場を営みながら夢を膨らませていました。やがてブラジルからの原石輸入を成功させ、伝統的な水晶宝飾産業に独自の地位を築いていきました。

はるか水晶の山が見えたふるさと
山に囲まれた山梨でも、篠原正廣氏が生まれた北巨摩郡朝神村浅尾は、東に茅ヶ岳、西に南アルプス、はるか南方に富士山を一望できる広大な地域にあります。また北方には、その昔から異様な山肌で知られた修験の山、金峰山がそびえ立っています。このあたり一帯の山々からは、江戸時代から明治にかけて地場産の水晶が盛んに採掘されていました。 大正12年頃、上海で取り引き中の記念スナップ明治24年(1891)、正廣氏は農業篠原徳右衛門の二男として生まれました。高等小学校に進学してまもなく、水晶研磨に先見性をみた兄の勧めで、甲府の土屋水晶店(土屋宗幸氏)へ徒弟奉公を始めます。当時ようやく水晶の飾り物が出回り始めた頃で、桜町の表の店には4人の印刻見習い。裏の工場には8人の研磨見習いがいました。新参の見習いのできることは、もっぱら掃除や原石や材料の運搬ぐらいで、朝から夜までつらい仕事が続きました。市内にはまだ電灯もなく上水道も敷かれていなかったそうです。 やがて少しずつ研磨にたずさわれるようになると覚えは早く、数年で大阪の内国博覧会で入賞するほどの腕前になりました。明治41年には、大阪の高岡商店の注文で巨大水晶玉の研磨に挑戦し見事に成功。兄弟子と共に見聞した京都、大阪の風物は少年の心を大きく躍らせたそうです。

アメリカ密航の夢破れ
正廣氏は、仕事の後に夜な夜な愛読していた雑誌を通して、遠い世界へ夢をはせていました。甲州財閥の雄、若尾逸平や雨宮敬次郎らの実業家の活躍も少年の心を強くとらえたのでしょうか。ついに主家を出て横浜港でアメリカ船への密航を企てますが、あえなく失敗。以来幾多の苦難の道のりが始まりました。 明治末年までには、黒平、増富、竹森で続けられていた地場産の水晶原石は採れなくなり、奉公していた土屋商店も後2年余りの年季奉公を残して閉店してしまいますが、持ち前の旺盛な企業心から若くして独立。わずか残された地場産水晶の買い付けに奔走したり、徒弟を使っての小さな研磨工場を営んでみますが、やはり原石不足の為あえなく失敗。夢は一獲千金の危険な相場取引に向かって行きました。米相場の取引の誘惑には勝てず、持ち前の才気で何度かは大金を手にしますが、結局は大損、死ぬ直前までいきながらもなお夢を追いかけ、やがて無一文になって郷里にもどってきます。 実はこの時代の失意と才気に満ちた貴重な体験が、後の再出発に大きな意味を与えてくれたのです。傷心を抱いて引き返った南巨摩郡静川村切石(現在の中富町)の水晶店深沢孝太郎方で一職人として印材作りに励みながら、当地で生涯の伴侶となる妻千代と結婚、大正5年には将来を担う長男、方泰氏が誕生しました。

水晶業を天職として尽くす
今日に続く篠原貿易の創業は、波瀾万丈の末に人情と自然豊かなふるさとに落ちついたこの時代。大正4年(1915)、鴨狩津向村(現在の六郷町)で印材業を再開したことに始まります。歴史的にみますと、富士川筋の河内地方は、耕地が乏しく古くから行商人の多いところ。地場産品をもっては全国を売り歩く伝統がありました。とりわけハンコと水晶彫刻を生業とする人は多く、今大きな宝飾企業に成長した会社でも当地をルーツとする会社がいくつか見られます。水晶を産した名勝地、昇仙峡を案内
 再開当時はちょうど第一次世界大戦後の好景気で営業は順調にスタート、ようやく安定し正 業として水晶を取り扱えるようになりました。一か八かの運まかせでなしに、人並み以上の幸 運を手にする為には一日一人半分働くしかないと考え、床の間の掛図に『一人半』と書いて眺め自らの座右銘として家業に励むようになったのもこの頃のことだそうです。 やがて数年で米価は暴落し全国各地に米騒動の嵐が吹き荒れ、甲府でも若尾邸の焼き討ち事件が起こりました。米相場の絶好のチャンスの時期にも、若い頃からの繰り返しの失敗を思い出し、二度と相場に手を出すことはなく、以来、水晶業を天職として全力を尽くす決意を新たにしました。

ブラジル産水晶原石を初めて輸入
県内産の水晶原石はすでに明治の末で完全に枯渇してしまいました。このままでは水晶研磨業の衰退は目に見えています。海外からの原石輸入は急務とされ、一時は朝鮮からの輸入も試みられました。良質で豊富なブラジル産水晶があることを知るや直輸入することが正廣氏の大きな目標となりました。精力的に動きながら輸入ルートの開拓にいち早く着手、幾多の交渉と失敗を繰り返しながらも、神戸のブラジル領事館のP.V.Dコート氏の厚意により、大正10年に初めての直 輸入を成功させます。以来、昭和2年には、ブラジルのビクターレーマ社と5年間で80トンの大量原石の輸入を契約、さらにこの契約は第2次世界大戦の色濃くなる直前まで更新され、新たな原石輸入ルートとして業界に一大転機をもたらしました。 やがて拠点を甲府に移して、事業は更に拡大します。水晶彫刻は昭和初期からのメイン商品甲府の名も知れぬ一民間業者が海外からの大量輸入を成功させたことは、当時多くの人々を驚かせました。なにより正廣氏の水晶にかけた情熱が勝ったのでしょう。正廣氏は、ブラジル領事が後見に立ってくれたことを誇りとし、感謝の気持ちを生涯忘れることができませんでした。正式の契約にこぎつくまでのエピソードは、今なお語り継がれてきています。十分な語学力がなかった正廣氏にとっては、なにもかも分からないことばかりで苦労の連続でした。例えば、輸入に必要な信用状を発行してもらうにも、欧文のサインを書かねばなりません。コート氏の手本をまねしながら一夜漬けでサインを練習してもなお認めてもらえず、日本流の実印を重ねてようやく契約を認めてもらったこともありました。

不思議な暗号が大活躍
原石輸入を成功させると水晶彫刻やネックレスの輸出にまで事業を拡大、ブラジルや上海との取引が日常化するにつれ、郵便での契約交渉も頻繁に行われるようになりました。今のような便利な国際電話のままならぬ時代、約2カ月も要した船便でのやり取りは大きなネックとなっていました。そこで考えだされたのが、簡易式の暗号文。すべての案分を基本単位ごとに記号化し、電信で送ればただちに取引をすることができました。必要にせまられ必死になって作った独自の暗号をまとめ、神戸の英文専門の印刷所で欧文電信暗号帳50部を製作。やがてこのルーツが大きな力を発揮してくれました。

 

2.水晶製品の輸出で新しい時代をひらく
先代により、戦前から着々と築かれてきた水晶原石の輸入を母体とする貿易商社としての地位は、敗戦で再びふり出しにもどってしまいました。しかし、長い海外取引のノウハウと地道な努力でいち早く復活。業界全体の再興も順次計られ、今に続く宝飾フェアもスタートして行きます。新しい時代は、新しい世代によって成し遂げられねばなりませんでした。シベリア抑留から奇跡的に生還した篠原方泰氏の強力なリーダーシップにより、当社もまた業界も戦後の発展期を迎えます。高度経済成長を迎え、よりグレードの高い水晶宝飾品の生産基地へと脱皮するために、公私を越えた献身的な努力が続けられ、やがて“宝石の街・甲府”として全国から注目きれるようになりました。

混乱期のふんばりが発展の礎に
少し時代を遡ってみますと、実は昭和の初めから、篠原貿易だけでなく甲府の業者も次第に海外市場へ目を向けるようになっていました。しかし地場産業としての基盤ができかかってくる頃、中国大陸では戦争が始まり、やがて太平洋戦争へと突入して行きました。業者の努力にもかかわらず昭和15年7月の「奢侈品製造販売制限規則」いわゆる「七・七禁止令」により、水晶業界は致命的な打撃を受けました。もはや装飾品の製造も販売も全く不可能となったのです。業界はひとつの統制組合に編成され、戦火が拡大するなか、軍需産業の一翼を担うことになります。 昭和17年、長男方泰氏が出征、残された者たちは日々の暮らしもままならぬ状況下でした。要員不足になやまされながら、業界一丸となって軍需用の電波発振用水晶ST板の研磨を請け負うことで、ようやく技術的な余命だけは保つことができました。

新しい業界のリーダーヘ
シベリア抑留から帰還直後の方泰氏第2代社長篠原方泰氏は大正5年(1916)生まれ。戦時下の厳しい状況のなかで青春を迎えていました。地元の甲府商業高校を卒業後、横浜市立商業専門学校を経て、昭和16年には慶応義塾大学経済学部を卒業、家業を継ぐ身ながら日立製作所に入社しました。しかし翌年には関東軍要員として招集され、将校として満州で終戦、昭和22年秋まで過酷なシベリアで抑留生活を送りました。絶望的な状況のなかでもなお人間らしく生きようとする様が、自叙伝の多くのページをさいて書き残されています。最終抑留地は、はるか中央アジアのボルガ河畔のエラブカ、長い長いシベリア鉄道の旅、やっと復員して甲府駅に降り立ったときの感慨は察するに余りあります。すぐさま駅前の知り合いに家族の安否をたずねほっと胸をなでおろしたそうです。まさに自叙伝『再生』のタイトル通りに、残された命をどう生き切るかが方泰氏の戦後のスタートになりました。
水晶製品に囲まれながら仕事をする晩年の正廣氏 ちょうど先代正廣氏が甲府で着々と復活への準備を始めていた頃でもありました。戦後の日本の復興は輸出による外貨の獲得しかありません。やがて民間貿易が自由に行えるようになると、もっぱら方泰氏がこちらの業務に当たるようになっていきました。ようやく暗く厳しい青春に終止符が打たれるのもこの頃からでした。昭和23年に雨宮きみと結婚すると長女泰子、長男義明(現社長)が生まれ、幸せな家庭もでき、まもなく家業を継ぐや、占領軍下のGHQを相手に業界再興に向けて、めざましい活躍が始まりました。

新鮮な目で世界を視る
戦後間もなく、アメリカはまぶしく輝いていました。かつての敵国ながら多くの日本人の憧れの国でした。戦後の復興を自らの使命とする働き盛りの方泰氏は、いち早く海外へ目を向け始めます。米国視察中の方泰氏早くも昭和32年には単身でアメリカ市場の調査に渡米、東京オリンピックの翌年の昭和40年には友人らとともに欧州、アフリカ、南米、北米の各地を視察、新鮮な目で世界の実状を目にしてきました。とりわけ宝石加工のメッカ、ドイツのイーダーオーバーシュタインを訪れたときには将来の甲府の姿を重ねて見ていた様子がうかがえます。経済の動向だけでなく旅で体験した多くのエピソードを通して、自らなすべき事を強く意識するようになりました。

地場産業の発展に奔走する毎日
業界全体がよくならなければ各企業の発展もないと、強い信念でリーダーシップを発揮する方泰氏の考えは終始一貫して、周囲を強く説得するものがありました。復員して数年を経ずして、昭和28年には、山梨県水晶商業協同組合(現山梨県ジュエリー協会)を結成し初代理事長に就き、当時取引の大きな壁となっていた物品税廃止に奔走、また昭和39年には山梨県輸出振興協会の設立に参加し、対米輸出の花形の自動車産業と同じく、自社自らも輸出貢献企業の認定を受け輸出促進の努力を重ねました。宝石学校促進シンポジウムで熱弁をふるう 方泰氏の見識と実行力はさらに地元財界の発展にも向けられ、昭和48年に甲府商工会議所の専務理事になってからは、宝石美術専門学校や地場産業センターの設立に奔走し、大型小売店舗の進出に当たっては、新しいコンセンサス方式を定着させるなど、更にその活動の幅を広げました。今ようやく実現されてきた甲府のまちのインフラ整備など、私事を捨て業界や地域の為になした貢献の大きさは、今なお多くの人々から聞くことができます。

輝かしい表彰・勲章の栄誉
観光物産展で知事を案内する方泰氏業界や地域への献身的な貢献は、篠原貿易の一貫した姿勢でもありました。初代の正廣氏は常に郷里への感謝の念を忘れず、郷里の明野中学校に野球用のバックネットを寄贈されたのを始め、郷里へ様々な面で貢献し多くの村人に感謝されました。悠々自適の暮らしを続けながら、生涯にわたる活躍を認められ、黄綬褒章を、また勲五等雙光旭日章を与えられました。一方、初代以上に様々な役職を成し遂げた方泰氏も業界への貢献を認められ藍綬褒章、紺綬褒章を授与、ほどなく勲四等瑞宝章を与えられたことは、人々の記憶に残るところです。

 

3.未来を目指すアクティブな企業へ
原石輸入中心の初代篠原正廣氏の時代、輸出を中心の復興期から高度成長期へ向かつた二代目篠原方泰氏の時代を経て、いよいよ現社長義明氏の時代になります。義明氏が社にもどった、昭和52年の頃は円高が進み始め、後発の開発途上国の韓国や台湾に押され、当社のメイン商品である水晶製品の輸出は減少の一途をたどっていました。-方国内では高度成長期も終わり日本のGNPは世界一位となり、人々は真に豊かな生活を求めるようになってきました。ハイクオリティーのジュエリー製品のニーズは日常化し、新たな模索が始まります。伝統のSOKYOフェアや毎年春催される甲府ジュエリーフェアなど、大型の商談フェアに数多く参加し、その中心メンバーとして、次々と新商品を提案していきました。

山梨の伝統工芸品・貴石彫刻を広める
3代目義明氏は昭和26年(1951)甲府で生まれました。武蔵大学経済学部卒業後、東京で3年間勤務。その後静岡県富士宮にある貿易研修センターで貿易実務を研修した後昭和52年篠原貿易に入社しました。 昭和61年、惜しまれながら亡くなった方泰氏に代わって、若い義明氏が35才で社長に就く頃、世界の政治も経済もめまぐるしく変わりつつありました。義明氏は、宝石卸の会社での修業時代の経験を生かし、それまで輸出中心であった水晶彫刻品の国内販売に力を入れることにしました。思い切った戦略の転換でしたが、展示会形式の販売スタイルが全盛の時でしたので北海道から九州まで引き合いが多く、積極的展開が行われました。

貿易会社の特色を生かしながらジュエリーの分野へ
SORJEコンテストで山梨県知事賞を受賞したセミプレシャスストーンのオリジナルリング置物の販売も安定した昭和58年頃より、さらに業務の幅を広げるべくジュエリーを手掛けるようになりました。義明氏は、ジュエリーでは後発組でしたので同業の中でどのように自社の特徴を出すかが問題であったと言っています。スタートが水晶の輸入会社ということもあって半貴石を使ったジュエリーにこだわろう。そのようなコンセプトでスタートし、様々なユニークなカラーストーンジュエリー製品に情熱を注いできました。そのこだわりは現在も変わっていません。  もう一つの問題は良い工場に巡り会うことでした。なかなか希望する仕事をしてくれる工場が見つからなかったこともあり、貿易の経験を生かして工場を海外に探すことになりました。昭和62年より香港の工場とタイアップし本格的にオリジナルジュエリーを作り始めて以来、昭和63年にブローチで知事賞を受賞、その後市長賞、日本ジュエリー協会会長賞、会議所会頭賞、日本経済新聞社賞、など数多くの賞を受賞することができました。平成6年の山梨県装身具協会主催のコンテストではセミプレシャスストーンのリングで再び知事賞を受賞。ジュエリーの部門でも着実に実績を積み上げています。
80年の歴史を未来に向けて
県地場産業センターは地場産品の情報発信基地先代方泰氏が業界のリーダーとして奔走した成果は、実はこの時代になりようやく完成されてきました。県立宝石美術専門学校も、地場産業センターやデサインセンターも今ようやく地域に定着してきました。
先代方泰氏の影響を受けたのか、義明氏もまた仕事のかたわらいくつかの社会活動へ参加し、青年会議所時代は山梨プロックの会長として、またその後は商工会議所の議員としてまちづくり運動に携わっています。
フェアで接客に忙しい義明氏夫妻バブル時代に急成長を遂げた宝飾業界もバブルの終わりとともにさまざまな危機に襲われます。価格破壊にともなう流通の変化、円高による輸入環境の変化、阪神大震災によるマーケットの冷え込み。創業80年はそのような激動の時代でした。

時代の変化に合わせて
現 篠原貿易株式会社の応接室ジュエリーを手がけるようになってからの篠原貿易はドイツ、イタリア、香港など海外からの輸入にも力を入れて、宝飾の分野でも着実にその存在感を発揮するようになりました。スイスのバーゼルフェアを始とし、イタリア、フランス、韓国、香港と様々な展示会を視察し海外トレンドいち早く紹介するようになりました。平成12年(2000年)ジュエリーの輸入貢献に対し関東通商産業局長より輸入貢献企業として表彰を授かっています。デザイナーズジュエリーにも力を入れながらオリジナルジュエリーの製造卸を順調に進めてきた篠原貿易にも、平成20年起きたリーマンショックは大きな打撃でした。その後の卸売りの衰退、小売店の閉店など日を追ってマーケットは落ち込んで行きました。その様な中、その年の10月、篠原貿易は直接消費者販売に力を入れるべく小売部門としてジュエリーコンシェルジュを立ち上げました。水晶原石の輸入から水晶製品の輸出、そして宝飾品の輸入国内卸から製造小売販売へと業態を変化させながらも歩みを続けています。
100年の歴史を未来に向けて
現 篠原貿易株式会社の社屋全景義明氏は甲府商工会議所、山梨県貿易振興協議会、山梨県ジュエリー協会などの業界での功績から2013年県政功績者表彰授章します。平成25年の消費増税、アベノミクスに始まった円安による地金、ダイアの高騰と業界を取り巻く環境は日々変化しています。その様な中、平成27年(2015年)篠原貿易は創業100周年を迎えました。貿易会社としてスタートした100年の長きにわたる蓄積は他社にはない独自のものです。歴史の中に生きるということは幾多の時代の変化に機敏に対応し、自社の独自性を打ち出しながらその変化を乗り越えていくことではないでしょうか。 国内工場のみならず海外工場を使いながらグローバルなネットワークの中で生きていく企業として、また山梨のブランドKoo-Fuのブライダルジュエリーの販売やジュエリーリメイクをすることによって直接消費者との接点を持ちながらの販売を通じてさらなる発展を続けていくことでしょう。
歴史を物語る懐かしい資料
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