初雪の天のひとひら手に掬ふ 由季
先日の大雪で雪深い故郷嬬恋村のことを思い出しました。
亭主が生まれたのは群馬県吾妻郡名久田村(現中之条町)、育ったのは吾妻郡嬬恋村。
戸籍上の名は綿貫不二夫だが、小学校6年までは勝手に「篠原不二夫」を名乗っていた。
母が教師をしていた嬬恋村立東小学校に入学すると苗字の違う亭主を級友たちが「篠原先生が橋の下から拾ってきた」とからかった。
ある日、試験用紙に「しのはらふじを」と書いて、以後「ワタヌキ君」と呼ばれても返事しなかった。
母のいない中学校ではそんな勝手は許されず、橋の下からでもないので、「綿貫不二夫」に戻った。
父方の祖父は綿貫形次郎(明治7年生まれ)、母方の祖父は篠原龍策といった。
篠原縮平の次男として明治2年11月3日に生まれた龍策は、故郷嬬恋村を出奔し代用教員になってその後全国を転々とする。
はじめのころの教え子が綿貫形次郎、先生と生徒は幾つも違わなかった。師の恩を形次郎は忘れず、後年、息子・要一(つまり私の父)の教育を茨城県土浦で中学校の教師をしていた篠原龍策に託す。だから父と母は土浦の篠原家で育ち、長じて結婚した。
群馬県吾妻郡中之条町大字赤坂(旧名久田村)が綿貫一族が住む山奥の小さな集落である。
兄弟5人のうち、この名久田(なくた)で生れたのは末っ子の私だけなのだが(他の兄弟は父や母の勤めの関係で他の土地で生れた)、戦後父母が離婚したため、母はまだ幼かった私だけを抱えて親戚を頼り草津温泉へ向かった。
記憶の最初は、草津温泉の親戚の松村屋旅館の別館二階に母に手を引かれて上がった日のことだ。翌日は猛吹雪だった。終戦後のどさくさの中で母一人子一人の生活が始まり、数年後に草津の隣り、母方の篠原一族が住む嬬恋村に移った。
だから私にとって故郷といえるのは生地の名久田村ではなく、小学1年から中学3年までを過ごした嬬恋村である。
嬬恋村(つまごいむら)という名はヤマトタケルが弟橘姫を偲んだという故事による。初代村長を務めたのは一族の篠原仙吉だった。
もう母も亡くなり、親戚しかいないが季節ごとに野菜を送ってくれ夫婦二人の食生活を彩っている。昨夜食べたジャガイモも嬬恋産である。
一方綿貫の故地を守る長兄はときどき切り抜きやら資料を送ってくる。
ずいぶん前だが、亭主の生まれた頃にあった蔵の記事が載っている新聞を送ってきてくれた。
祖父・綿貫形次郎が建てた蔵が老朽化し、兄は取り壊しを考えたらしいが、左官職人さんの組合が伝統技術の継承と蔵の保存のために移築を提案してきた。
群馬の左官職人340人が一年かけて我が家の蔵を解体・移築・保存した。
蔵を塗る機会などいまはない、職人さんたちに少しはお役にたったらしい。
今は前橋に移築され居酒屋になっている。単なる保存でなく使ってくれているのが嬉しい。
いつか息子と孫と飲みに行ってみようか。
「建築を訪ねて」バックナンバー