1891年(明治24) |
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7月2日、恩地轍・頼子夫妻の第五子四男として東京府南豊島郡淀橋 町元柏木村(現・新宿北新宿)に生まれる。父は元和歌山藩士で、当時東 京地方裁判所検事であった。 |
1904年(明治37) |
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番町小学校卒業。
父の希望で医者になるべく独逸協会中学校へ入学、この頃、麹町に住む。 |
1909年(明治42) |
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独逸協会中学校卒業。第一高等学校受験に失敗する。
赤坂溜池の白馬会葵橋洋画研究所に通う。 |
1910年(明治43) |
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近くに住む竹久夢二をしばしば訪ね強い影響を受ける。
東京美術 学校西洋画科予備科に入学。 |
1911年(明治44) |
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東京美術学校彫刻科彫塑部予備科へ転科、数カ月後には退学す る。
洛陽堂より竹久夢二らと『都会スケッチ』を出版。洛陽堂主人の勧めで初めて装幀を手掛ける。 |
1912年
(明治45、
大正元) |
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東京美術学校西洋画科予備科に再入学する。この頃より 抽象的作風の作品を制作する。 |
1913年(大正2) |
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竹久夢二画文集『どんたく』の装幀をする。
友人の田中恭吉、 藤森静雄とともに木版画の制作を始める。 |
1914年(大正3) |
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木版画の制作に熱中し田中、藤森と詩と版画の同人誌『月映』 を3月から7月にかけて自摺私輯6册を刊行する。
9月より田中、藤森と洛陽堂を 版元として『月映』第、2、3輯を刊行(自刻・機械刷)。
日本橋にあった竹久夢二経営の港屋で《月映小品展》を開催。北原白秋、室生犀星、萩原朔太 郎らと交友が始まる。 |
1915年(大正4) |
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『月映』第4、5、6輯を刊行(自刻・機械刷、洛陽堂)、港屋で展覧する。
東京美術学校西洋画科を中退。
10月23日田中恭吉が死去、『月 映』は第ァ輯(告別号、1月刊行)をもって廃刊する。 |
1916年(大正5) |
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小林のぶと結婚。
室生犀星・萩原朔太郎の同人誌『感情』が創 刊され、装幀を担当、第2号から版画や詩を発表する(1919年、32号で終刊)。 |
1917年(大正6) |
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長女・三保子誕生。
萩原朔太郎詩集『月に吠える』が感情詩社から刊行され、装幀・挿画を担当し、故田中恭吉の遺作を挿入する。
処女版画 集『幸福』を出版。 |
1918年(大正7) |
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『感情』第20号に<恩地孝四郎抒情画集>が特集される。
山本鼎、戸張孤雁、織田一磨らの発起した日本創作版画協会の結成に参加。
室生犀 星詩集『愛の詩集』(感情詩社)の装幀・挿画を担当する。 |
1919年(大正8) |
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第一回日本創作版画協会展(日本橋・三越)に出品。以後、毎回出品する(〜 1929年)。
第6回二科展に入選。 |
1920年(大正9) |
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長男邦郎が誕生。
台湾旅行。
神田・兜屋画堂にて個展を開催、 油彩、素描を中心に60点を展示。 |
1921年(大正10) |
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総合芸術誌『内在』を大槻憲二、藤森静雄と創刊。
次男昌郎が 誕生。 |
1922年(大正11) |
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『詩と版画』(アルス社)の編集に協力するが、1号のみで休刊 となる。 |
1923年(大正12) |
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萬鉄五郎の円鳥会の結成に参加。
『詩と版画』が再刊され、編集及び執筆をする。
関東大震災。 |
1924年(大正13) |
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二女暁子が誕生。
横浜・鶴見花月園に少女歌劇部主任として約1年間勤務。
自作脚本の演出、舞台装置、作曲などを担当する。 |
1925年(大正14) |
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この頃よりアルス社などの装幀の仕事を多く手掛ける。 |
1927年(昭和2) |
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詩と版画誌『港』(沢田伊四郎編集刊行)第3号より同人として参加、編集に協力する。
『港』を改題し、『風』を創刊、版画や詩文を発表する。
この年より創作版画の受理を認めた第8回帝展に木版画《幼女浴後》が入選する。以後第10回まで連続入選する。 |
1928年(昭和3) |
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父轍が死去。
大阪朝日新聞社企画《北原白秋の柳川への空の旅》に同行し初めて飛行機に乗る。この時の感動を、後年『飛行官能』として発表。
川上澄生、前川千帆、藤森静雄、深沢索一、諏訪兼紀、平塚運一、逸見享と8人で卓上社を結成、第1回展を日本橋・丸善で開催する。
『近代劇全集』(第一書房)、 『白秋全集』(アルス社)などで装幀家としての地位を確立する。
『風』が休刊となる。 |
1929年(昭和4) |
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中島重太郎主宰の創作版画倶楽部より《新東京百景創作版画》 の頒布が始まり、前年結成の卓上社の同人が分担して制作する(〜1932年)。
『風』が再 刊され編集、執筆、作品発表をする。再刊第1輯は<恩地孝四郎作品小品>。
創作版画倶楽部より『版画CLUB』が創刊され、編 輯同人となる。 |
1930年(昭和5) |
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第11回帝展に《双貌》が落選、以後出品せず。 |
1931年(昭和6) |
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日本創作版画協会、洋風版画協会、及び無所属作家らが大同団 結をはかり、日本版画協会が設立され、常任委員となる(会長は 岡田三郎助、会員42名)。
第一回展が日本橋・三越で開催され出品する。以後、同会の活動に生涯尽力する。 |
1933年(昭和8) |
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母頼子が死去。 |
1934年(昭和9) |
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長谷川潔らの尽力により、パリにて日本版画協会主催による 《日本現代版画展》が装飾美術館内パピヨンド・マルサン会場にて開催さ れ、《化粧》など7点を出品。
詩画集『海の童話』(版画荘)、詩・写真・版画による創作集『飛行官能』(版画荘)を出版する。 |
1935年(昭和10) |
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志茂太郎と愛書誌『書窓』を編集刊行する(アオイ書房、1944年終刊)。
童話歌劇小曲集『ゆめ』(新生堂)、版画詩文集 『季節標』(アオイ書房)を出版。
《ポエム》連作が始まる。 |
1936年(昭和11) |
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第11回国画会展に《廟門》などを出品、会員となる。以後、版画部会員として出品を続けた。
『竹久夢二遺作集』(アオイ書 房)を有島生馬と共編。 |
1937年(昭和12) |
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日本版画協会主催による《日本現代版画展》がサンフランシスコなどアメリカ・ヨーロッパ各地を巡回し、出品する。 |
1938年(昭和13) |
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日本版画協会より《新日本百景版画》の頒布が始まり、恩地は 《台北東門》と 《雲仙一景(1940年)》を制作する。 |
1939年(昭和14) |
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若い版画家のための研究会《一木会》を自宅にて毎月第一木曜 日に開く。戦後まで続けられ、多くの才能を育てた。 |
1942年(昭和17) |
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随筆・写真集『博物志』(玄光社)、随筆集『工房雑記』(興 風館)を出版。 |
1943年(昭和18) |
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詩と版画集『蟲・魚・介』(アオイ書房十周年記念書窓版画帖十連聚其八)を出版。
日本版画奉公会が結成され、理事長とな る。
随筆集『草・蟲・旅』(龍 星閣)を出版。 |
1945年(昭和20) |
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終戦を目前に8月6日、次男昌郎が戦死。 |
1946年(昭和21) |
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自作を含む詞華集『日本の花』を富岳本社より編集出版する。この頃から進駐軍将校として来日したアメリカ人コレクターらが恩地作品を積極的に買い始め
る。 |
1947年(昭和22) |
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詞華集『人体頌』を富岳本社より編集出版する。 |
1949年(昭和24) |
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博報堂に装幀相談所が開設され副所長になる。後に所長とな る。
第一回日本アンデパンダン展(東京都美術館、読売新聞社主 催)に出品。 |
1950年(昭和25) |
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自作を含む一木会豆版画帖『博物譜』(青園荘私家版)を編集出版する。 |
1951年(昭和26) |
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第一回サンパウロ・ビエンナーレに《リリックNo.11回想の中で》を出品。 |
1952年(昭和27) |
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第二回ルガノ国際版画展にリリック連作を出品。前後して第一回日本国際美術展など内外の展覧会に出品が毎年続く。
『本の美術』(誠文堂新光社)を出版。 |
1953年(昭和28) |
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第五回装幀美術展(日本橋・三越)で『萩原朔太郎全詩集』が受賞、また特別 陳列として《恩地孝四郎装本三十年回顧展》が開催される。
長谷川三郎、山口 長男、吉原治良、瀧口修造、植村鷹千代らと日本アブストラクト・アート・ク ラブを結成。
国際アートクラブ(本部はローマ)の日本本部(通称・アートク ラブ)の設立に岡本太郎らと尽力する。
『日本の現代版画』(創元社)を出 版。
国立近代美術館主催《抽象と幻想展》に出品。 |
1954年(昭和29) |
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国立近代美術館《近代の肖像画展》に《萩原朔太郎像》などを出品したのをはじめ多くの展覧会に出品する。
国画会秋季展(日本橋・三 越)に《自分の死貌》を出品、長年出品を続けた日本版画協会、国画会への出品はこの年が最後となる。 |
1955年(昭和30) |
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4月東大医学部附属病院に入院、翌月退院し自宅療養を続ける が、6月3日病状 急変し死去、享年63。目黒の高福院に葬られる。
6月中央公論社画廊にて《恩地孝四郎版画小品展》、9月ナビス画廊にて《恩地孝四郎遺作展》(主催・アートクラブ)が開催される。
10月遺稿詩画集『日本の憂愁』が沢田伊四郎編集により龍星閣より出版される。
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